#other
「戦争と子供」
副会長 伊藤 浩子
毎日ウクライナの戦争のニュースがテレビから流れてきて、胸が痛みます。
戦火の中でもたくさんの人たちや子供たちが生活しているからです。早く戦争が終わってほしいですね。
日本でも、私が生まれてすぐに父は戦争にとられ、私が3歳のある日、家に戻ってきました。私はその父を見るのが怖くて嫌で、母の背中にかくれていたのを憶えています。
私が小学生のころ、家で鶏を飼っていたのですが、鶏のエサにするために、父が戦地から持ち帰った「はんごう」を持って、夕方になると近所の魚屋さんへ「あら」をもらいに行くのが私の仕事でした。鯖や鰯の頭や内臓をもらってきて、煮て、ぬかやふすまに混ぜて鶏のエサにするのです。しかし、新鮮な魚の「あら」は美味しくて、毎日鶏用に煮る前に家族の夕食用に取り分けて、煮て食べたものでした。それは、食べる物が少ない時代の立派なごちそうでした。
八千代市は、戦争のない平和な未来を子供たちに約束して、「八千代市平和都市宣言」を昭和62年に発布しました。それを憶えるために、市民会館の前に平和記念碑が建てられ、毎年8月6日に碑の前で黙とうが行われています。
毎日ウクライナの戦争のニュースがテレビから流れてきて、胸が痛みます。
戦火の中でもたくさんの人たちや子供たちが生活しているからです。早く戦争が終わってほしいですね。
日本でも、私が生まれてすぐに父は戦争にとられ、私が3歳のある日、家に戻ってきました。私はその父を見るのが怖くて嫌で、母の背中にかくれていたのを憶えています。
私が小学生のころ、家で鶏を飼っていたのですが、鶏のエサにするために、父が戦地から持ち帰った「はんごう」を持って、夕方になると近所の魚屋さんへ「あら」をもらいに行くのが私の仕事でした。鯖や鰯の頭や内臓をもらってきて、煮て、ぬかやふすまに混ぜて鶏のエサにするのです。しかし、新鮮な魚の「あら」は美味しくて、毎日鶏用に煮る前に家族の夕食用に取り分けて、煮て食べたものでした。それは、食べる物が少ない時代の立派なごちそうでした。
八千代市は、戦争のない平和な未来を子供たちに約束して、「八千代市平和都市宣言」を昭和62年に発布しました。それを憶えるために、市民会館の前に平和記念碑が建てられ、毎年8月6日に碑の前で黙とうが行われています。